2011年8月15日月曜日

平成24年度採択対象中学歴史教科書七社の比較その2


中学生に教えなければならない事は、日清日露の比較より、日本とロシアの国力・戦力比較であり、また、増税は、祖国を守る為に必要であり、また、敵から国を守るにはお金がかかるのだと言う事こそ教えなければならない。



最も大事な事は、日本国民の被った苦しみの全ての原因がロシアの極東への軍事侵略であった事を中学生に教えなければならない。



 ロシアの極東侵略が無ければ、戦争も無く、増税も無く、日本も、朝鮮も満州も平和に過ごせた事を教えなければならない。徳川300年の泰平は外敵が無かったからではないか。



 また、教科書は、日露戦争による増税を悪い事として書いているが、日本が、増税という苦しみを逃れるために戦争をせず、安易な道を選んでいれば、どうなっていたか。



日本はロシアに占領されて国を失い、私たちは今ごろロシア語をしゃべっている事であろう。この事こそ中学生に教えなければならない。



 明治42年発行の大阪毎日新聞の世界地図には、フィンランドとポーランドが無い。バルト三国も無い。赤い色でロシアの領土になっている。ドイツの東隣りがロシアである。当時、ポーランドはポーランド語を話す事をロシアに禁じられていた。



 こういう歴史的事実をこそ、教科書で教えるべきである。









5:【日露戦争のコラムと資料はどうか】



自由社      評価  5



【コラム】、2ページ



自由社のコラム『日露戦争を戦った日本人』では



  バルチック艦隊を最初に発見した宮古島の久松五勇士の話。

  歴史に残る日本海軍の大勝利、日本海海戦の様子と秋山真之。



  出師営での乃木大将と敵将ステッセルの話。



  戦艦三笠を建造した英国の港町に戦艦三笠の名を付けた三笠通りがある話。



いずれも日本人の誉れであり、中学生のみならず、日本人全員が知るべき誇り高き日本人の物語である。



このコラムは、教育基本法の「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛する」こと、また学習指導要領の「我が国の歴史に対する愛情を深め,国民としての自覚を育てる」という趣旨に適っている。



自由社のコラムは大いに評価する。





育鵬社       評価  5



【コラム】、1ページ



コラム『日露戦争を勝利に導いた舞台裏』は、



  アメリカで世論工作をした金子健太郎。



  戦争をするためのお金をヨーロッパで調達した高橋是清。



  ロシアで後方撹乱を行った明石元二郎。



育鵬社のコラムは、戦闘だけではない戦争の背景を説明した逸話で、中学生が日露戦争を立体的に理解する上で非常に良いコラムである。



自由社とは違った面を紹介して、独自性を出している。中学生の読み物として素晴らしいものになっている。



 望むらくは、自由社育鵬社のコラムを合わせたコラムが欲しい。



日本文教出版    評価 0



コラムなし。



資料:「与謝野晶子『君死に給う事なかれ』」   



反戦イデオロギーだけを前面に押し出しており、評価できない。







帝国書院      評価 2点        



コラムなし。



資料:「日露戦争を巡る様々な意見:開戦論(東京帝国大学の七博士)、非戦論(内村鑑三)、反戦詩(与謝野晶子『君死に給う事なかれ』)」 

 

 帝国書院は、反戦に偏らず、開戦論(東京帝国大学の七博士)も出している所は評価できる。





教育出版      評価 2点



コラムなし。



資料:「主戦論(東京帝国大学の七博士)と非戦論(内村鑑三)」、「与謝野晶子『君死に給う事なかれ』」



 教育出版は、反戦に偏らず、開戦論(東京帝国大学の七博士)も出している所は評価できる。





東京書籍      評価 0点



コラムなし。



資料:「与謝野晶子『君死に給う事なかれ』」

東京書籍は、反戦だけを前面に押し出しており、偏っている。評価できない。





清水書院      評価 0点



コラムなし。



資料:「与謝野晶子『君死に給う事なかれ』」、ネルー『父が娘に語る世界歴史』



反戦と、ネルーの日本帝国主義論は自虐史観に過ぎており、評価できない。







<自由社育鵬社のコラム>

 自由社育鵬社は、コラムを利用して、日露戦争をさらに深く説明しており、高く評価できる。中学生は、より深く日露戦争を理解し、また我が国と我が国の先人達を誇りに思う事でありましょう。     



特に、日本海海戦に関しては自由社のコラムが一番良く纏まっている。少し長くなるが、自由社の日本海海戦のコラムを全文引用する。



自由社のコラム<引用>



日露戦争を戦った日本人

日本国家の運命をかけた日露戦争。その最後の決戦となった日本海海戦を戦ったのは、日本の軍人や指導者だけではなかった。



久松五勇士(ひさまつごゆうし)

 ロシア海軍のバルチック艦隊は、19055月、インド洋からマラッカ海峡を経て、極東を目指していました。迎え撃つ日本の連合艦隊は、バルチック艦隊がどこにいて、どのコースをとってやって来るか、判断できませんでした。



 日本人で最初にバルチック艦隊と遭遇したのは、沖縄県宮古島の若い漁師でした。一刻も早く東京の大本営に知らせなければなりませんが、あいにく宮古島には通信施設がありません。役所に長老が集まって相談し、通信施設のある八重山諸島の石垣島まで使いを出す事になりました。これを引き受けたのが、久松地区に住んでいた5人の青年でした。彼らはトビウオ漁から帰ったばかりで疲れていたのですが、お国の一大事と、役目を引き受けました。



 5人は、サバニと呼ばれる丸木舟に載って、夜の荒海を15時間、170キロの距離を必死に漕いで、石垣島の東海岸に着き、さらに30キロの山道を走って、527日午前4時ごろ、八重山通信局に飛び込みました。



こうして「敵艦見ゆ」の電報が那覇を経由して東京の大本営に伝えられました。人間の生理的限界を超えて大役を果たした5人は、『久松五勇士』として、その功績が今もたたえられています。



海戦史に残る大勝利

 連合艦隊司令長官東郷平八郎は、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」と云う電報を打ちました。作戦参謀秋山真之中佐の起草したこの電文は、その後長く国民の記憶に刻まれる歴史的文章となりました。



 対馬海峡を北上してくる38隻のロシア艦隊との距離が8000mまで近付いた午後25分、日本艦隊は左に旋回して敵艦隊と平行に並び、速度を速めてその行く手を押さえる戦法をとりました。ロシア艦隊はいち早く発砲を開始しましたが、日本艦隊は、距離6000mから砲撃に移り、夕刻までに3回の戦闘で敵の新鋭戦艦5隻のうち4隻を撃沈し、戦いの大勢を制しました。



 戦闘は翌日まで続きましたが、38隻のロシア艦隊は、沈没21隻、降伏6隻、中立国に逃れ武装解除6隻のほか、ロシア本国に逃げ帰ったもの2隻で、目的地ウラジオストックにたどり着いたのはわずか3隻というありさまでした。日本は水雷艇3隻を失いましたが、軍艦の沈没はゼロで、世界の海戦史に長く残る大勝利でした。



武士道精神でロシアの敗軍の将を厚遇

 東郷大将は佐世保軍港に帰還した後、この海戦で重傷を負い、日本の海軍病院に送られていたロシア艦隊の司令長官ロジェストヴェンスキー中将を見舞いました。



 陸軍でも、旅順要塞陥落後、第三軍司令官乃木希典大将は、ロシアの司令官ステッセル中将と水師営で会見し、敗軍の将に着剣を認める特例の敬意を表しました。戦後、乃木は敗れたロシアの将軍の助命の為の努力をいといませんでした。当時の武人は、このように、敵味方の別を超え、武士道に基づいて振る舞う礼節の心を持ち合わせていたのです。



 イギリスの中部に、バロー・イン・ファーネスという小都市があります。日本海海戦で歴史的勝利を収めた日本の連合艦隊の旗艦(司令長官の載っている軍艦)が、この町のビッカース造船所で作られた三笠である事を知った当時の市民は、深くそれを喜び、三笠が進水した真正面の対岸の町を、ミカサ・ストリートと名付けました。以後100年余、日英両国間には一時戦争も起こりましたが、この名は変更される事無く、現在もそのまま残っています。』(p.188-189



<引用終わり>





この中で、戦前は誰もが知っていた乃木大将とロシア軍司令官ステッセル中将との水師営での会見を取り上げた自由社は評価できる。



司馬遼太郎の根拠なき愚将論により貶められた乃木大将を再評価する機会になる記事である。



(蛇足)

クリミヤ戦争で、ロシア軍の守るセバストポリ要塞を攻撃した英仏トルコ軍は、1年を要し(1854-55)20万の死者を出した。



乃木将軍は、ロシア軍の守る旅順要塞を3カ月半、死者1万5千、負傷者4万5千で、陥落させた。世界では乃木大将は英雄であった。

(司馬遼太郎さんは、なぜあれ程までに乃木将軍を貶めるのか)





 また育鵬社のコラムも、日露戦争の舞台裏を描いて秀逸である。これも引用する。



育鵬社のコラム



『コラム:日露戦争を勝利に導いた舞台裏



日露戦争を有利にした日英同盟

 日露戦争の勝利の背景には、日英同盟を基本とする巧みな日本外交がありました。



 日本は、日英同盟により、イギリスから列国の軍艦建造についての情報を入手し、ロシアより先に軍艦を購入して海戦に臨むことが出来ました。一方、バルチック艦隊は、遠征航海中、イギリスの圧力で寄港先が限られ、燃料の石炭の補給も十分に行えず、将兵も上陸して休養する事が出来なかったため、士気や戦力がそがれました。



味方を増やした世論工作

 また、戦闘の舞台裏では、日本はアメリカ、イギリスなどで親日的世論を形成するために積極的な広報外交を展開しました。



 伊藤博文の強い要請を受け、その側近の金子健太郎(1853-1942)が1904年(明治37)年2月、渡米しました。

 金子はアメリカの主要都市や大学、ホワイトハウスなどを訪れ、講演やスピーチ、新聞などで、日本の立場を強く訴えました。

 「この戦争は、黄色人種の白人に対する攻撃や、異教徒のキリスト教に対する攻撃ではありません。文明と野蛮、自衛主義と侵略主義の戦いです」「ロシアは自由を抑圧する専制国家であり、日本は自由を尊重する立憲国です。自由の国民であるアメリカ人は、日本に同情を寄せないわけにはいかないはずです」

 この間、金子はハーバード大学で同窓のセオドア・ルーズベルト大統領と面会を重ね、理解を得ることにも成功しました。後にルーズベルトが、ポーツマス講和会議の仲裁役を務めたのも、金子の裏の外交の成果でした。



戦費の調達に奔走

 一方、戦費調達の為の外債(外国からの借金)募集で活躍したのは日本銀行副総裁の高橋是清(1854-1936)でした。高橋は、イギリス、アメリカを訪れ、粘り強いはたらきかけによってイギリスの銀行家やアメリカのユダヤ系資本家らの理解と信用を得ました。そして英米で合わせて1000万ポンドもの日本公債を発行する事に成功し、その後も数回の外債募集で大きな成果を収めました。



ロシア革命の動きを支援

 奉天会戦、日本海海戦で勝利を収めた我が国は、同時にロシアの国内工作にも力を注ぎました。ロシア国内の不穏な状況を増大させ、戦争を嫌う世論を作りだす為に、陸軍大佐明石元二郎(1846-1919)は、ロシア革命への動きを支援し、ロシアの世論を講和締結へと導きました。



 日本の運命をかけた日露戦争の勝利は、戦争の舞台裏で繰り広げられた、外交戦、情報戦によってもたらされた勝利でもあったのです』(p.175)



 自由社育鵬社のコラムは見事である。



 これだけ素晴らしい明治の先人の物語を、なぜ他の5社は取り上げないのか。なぜ他の5社は、語り継ぐべき日本の偉大な叙事詩を子供たちに教えようとしないのか。









6:【日露戦争の描写】



次に、各社が日露戦争の経緯をどう描写したか、本文から引用する。



自由社    評価  5

1904(明治37)年、日本はロシアに国交断絶を通告し、日露戦争の火ぶたを切った。戦場になったのは朝鮮と満州だった。1905年、日本軍は苦戦の末、旅順を占領し、奉天会戦に勝利した。



ロシアは劣勢を跳ね返す為、本国からバルチック艦隊を派遣した。艦隊は、インド洋から東シナ海を経て、19055月、日本海にやってきた。これを迎え撃った日本の連合艦隊は、東郷平八郎司令長官の指揮のもと、兵員の高い士気と巧みな戦術でバルチック艦隊を全滅させ、世界の海戦史に残る驚異的な勝利を収めた(日本海海戦)』(p.186



自由社は、日露戦争の中心となる 旅順攻略戦、奉天会戦、日本海海戦、東郷平八郎は書かれているが、乃木希典大将が本文に無い。

欄外に出師営の写真と共に紹介され、コラムでも取り上げているが、乃木将軍は本文に載せるべき人物である。この点は残念である。





育鵬社   評価  5

『ロシアの極東での軍備増強をこのまま黙認すれば、我が国の存立の危機を迎えると考えた背府は開戦を決意し、1904(明治37)年2月、日露戦争が始まりました。


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