2011年2月2日水曜日

東京書籍様からの第4回目の回答

平成22122
岡田隆志様
東京書籍株式会社 編集局
社会編集部長
渡辺能理夫
ご質問をいただきました件につきまして

謹啓
 師走の候、岡田様に置かれましては、ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。

 中学校歴史教科書の「南京事件」の記述に関して、20ページを肥える詳細なお手紙を頂戴いたしました。時間をかけて、多くの書籍をお調べになったことと拝察いたします。今後、編集作業に際して参考にさせていただきます。ありがとうございました。
 ご質問を改めて頂戴しておりますが、昨年10月以来、編集部としてお答えできる範囲で回答させていただいてまいりました。今回、全体で10点のご質問を頂戴しておりますが、教科書記述の根拠についてはこれまでお答えしてきた通りですので、新たな回答は控えさせていただきたく存じます。

 以上、簡単ではございますが、ご質問につきましての回答とさせていただきます。
ご理解を賜りますよう、お願い申し上げます。

謹白


第4回公開質問状

平成221028
東京書籍株式会社 編集局
社会編集部長
渡辺能理夫 様

「南京虐殺」の「国際的な非難」に関する公開質問状

拝啓

錦秋の候、貴社ますますご盛栄のこととお喜び申し上げます。平素は格別のご高配を賜り、厚くお礼申し上げます。

 818日付御社回答を頂きました。ありがとうございました。今回は返事が非常に遅くなりました。調べものもあり、時間を取ってしまいました。どうぞご容赦下さい。

 今回は大分長くなりますので、まず要旨だけ先に書きます。

御社ご回答の中で、所謂「南京虐殺」の「国際的な非難」の例としてお示し戴いた『チャイナ・トゥディ』、『ニューヨーク・タイムズ』、『マンチェスター・ガーディアン・ウィークリー』の3点の記事は、いずれもプロパガンダ記事の可能性が濃厚で、信用に足るものではありません。

即ち、『ニューヨーク・タイムズ』の記事は同新聞社のティルマン・ダーディン記者なる人物がマイナー・ベイツなる人物から渡されたメモを基にして書かれたものです。

そのティルマン・ダーディン記者なる人物は、国民党政府主席蒋介石がアメリカの新聞に記事を載せるために利用していた新聞記者であり、またマイナー・ベイツは国民党政府の顧問で、反日活動に協力した人物です。

故に、この記事は日本を貶めるためのプロパガンダ記事であると考えざるを得ません。

 また『チャイナ・トゥディ』の記事は、上記のダーディンの記事を基にして書かれた孫引き記事である、とされています。そうであるならば、この記事も当然ダーディンの記事同様に信用できません。

三番目の『マンチェスター・ガーディアン・ウィークリー』の記事に関して、御社の回答では、誰が書いたか述べられておりませんが、おそらくハロルド・ティンパーリーなる人物ではないでしょうか。

そうであるならば、彼もまた、マイナー・ベイツ同様に国民党政府の顧問であり、また国民党政府に協力して対日宣伝工作を行った人物であり、彼の書いた記事も当然プロパガンダ記事と看做さざるを得ません。

結論として、御社の挙げられた三つの記事は、どれも国民党政府による宣伝工作の一環として書かれたプロパガンダ記事である可能性が濃厚であり、到底中学歴史教科書の依拠すべき資料とは言えません。

また、「南京虐殺」について国民党政府や蒋介石、また外国政府や国際連盟が非難をしたか否か、に関しては、御社は「資料が無いので分からない」として、「国際的な非難」に対して矛盾する事柄については一切触れられておりません。

 都合の悪い事は伏せて、都合の良いものだけを取り出して、それがすべてであるかの如き書き方は、明らかな偏向であり、歴史を捏造するものではないでしょうか。御社の教科書編集方法に対し、大いに疑問を感じるものであります。

 それに反して、例えば扶桑社の中学歴史教科書を見れば、「南京事件」に関して本文では一切何も記載しておらず、ただ傍注において

「(日本軍の占領時に)中国の軍民に多数の死傷者が出た(南京事件)。なお、この事件の犠牲者数などの実態については資料の上で疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている」
(扶桑社『新しい歴史教科書』平成17年検定版p.199

と、「南京事件」に関し、疑問点があり、また論争が続いているとして、公平で両論併記的な記述をしております。御社とは著しい違いであります。

 なお念の為、一言申しておきます。
私は扶桑社の教科書に対しても多くの問題点や不満を持っている者であります。例えば「中国の軍民に多数の死傷者が出た」という部分の「民」の「死傷者」などは、当時の資料とは大いに食い違っており、明らかな誤りだと考えている者であります。

 今回の質問は、御社が示された新聞雑誌の記事三点に関して、その信憑性について、どのように考えておられるか、また国民党政府をはじめ諸外国の政府や国際連盟からの非難の有無に関して、どうお考えか、それをお尋ねするものであります。


 ここで話が「南京事件」から少し外れますが、歴史教科書の偏向や捏造に関連して、御社の教科書に関して少し申し上げたい事が御座います。

韓国において朝鮮三・一独立運動で活躍した、と言われる朝鮮のジャンヌ・ダルクこと柳寛順は、日本においては、彼女が政治運動に参加したという当時の記録が無いとして、柳寛順の政治活動は嘘ではないか、と言われております。(出典:ウイキペディア)

その柳寛順に関して、御社の平成4年検定版においては、彼女の記載が無いのですが、平成8年と平成13年検定版では、彼女の説明文と写真が掲載されます。しかし、平成17年検定版では、また彼女が削除されています。
教科書とページ数は下記の通り。
中学社会歴史的分野、平成7年出版平成4年検定版(p.240
新しい社会歴史、平成12年発行平成 8年検定版(p.236
新しい社会歴史、平成17年発行平成13年検定版(p.157
新しい社会歴史、平成22年発行平成17年検定版(p.175)。

私には、御社がなぜ柳寛順を削除されたか、その理由は知る由もありませんが、御社教科書の記述の一貫性、信頼性に疑問を感じるものであります。

 また、公平さを欠き、著しく偏向した記述に関して一言追記しておきます。

李舜臣と東郷元帥
御社は、秀吉の朝鮮征伐の箇所で朝鮮水軍の李舜臣の名を本文に載せ、更に彼の銅像の写真を載せております(平成22年発行p.87)。しかし、日露戦争の所では、日本海海戦の英雄である東郷元帥の名前も無ければ説明も無く、また写真もありません(同p.158)。
李舜臣は、確かに初め日本軍を悩ましますが、最後は露梁海戦において日本水軍の鉄砲隊に狙撃されて戦死します。そして秀吉軍は無事に日本に帰還しております。

李舜臣は韓国の歴史では英雄かも知れませんが、日本史、また世界史においては、残念ながらそれほど重要な人物とは言えません。

それに反して、東郷元帥は日本海海戦においてロシアバルチック艦隊を撃沈すること21艘、捕獲5艘、自沈5艘、遁走6艘、ウラジオストク港へ到着3艘のみ、見事バルチック艦隊を壊滅せしめております。一方、日本側被害たるや小型水雷艇3艘の沈没のみ。戦死者はロシア側4,830名、日本側117名。世界海戦史上まれに見る完全勝利を収めました。

斯くの如く、東郷元帥は、日本史においては、わが国がロシアの植民地になる事を防ぎ、祖国の独立を守り抜いた救国の英雄であります。

また世界史からみれば、東郷元帥は、コロンブスから始まった白人による世界支配という大きな歴史の流れが完結しようとした、その最後の土壇場において、その流れを見事にひっくり返し、有色人種は絶対に白色人種に適わないという迷信を見事に打ち破ぶり、白人種の植民地支配に苦しんでいた世界中の有色人種に大きな自信と希望を与えた、世界史を根本から変えた人物であります。

この二人にこれだけの違いがあるにもかかわらず、朝鮮の李舜臣は教科書に載り、我が国の東郷元帥は載らない。

この教科書を見る時、御社は、日本の子供達に朝鮮の李舜臣は教えてもよいが、我が国の東郷元帥は教えなくてもよい、とのお考えでいらっしゃるように見受けられます。

そうであるならば、御社の教科書は日本の教科書ではなく、韓国の教科書であると言わざるを得ません。

また、御社教科書の蒋介石についての記述に関し、一言申し上げます。

蒋介石を御社教科書の人物索引で探すと、「さ」の行に無いのです。なんと「た」の行に載っております(平成22年発行平成17年検定版p.221)。

本文(p.186)を見ると、その理由が分かります。蒋介石の名の上に中国式で「チャン・チェ・シー」とルビを振っています。日本語のルビは下にあります。中国式で「チャン」だから「た」行と云う事です。これでは、蒋介石を「チャン・チェ・シー」と読めない子供は、蒋介石を索引で探せません。

まず単純な疑問として、日本語で読めるのになぜ中国式のルビを振るのか分かりません。またルビを振るなら、孔子や秦の始皇帝(p.17)に、なぜ中国式のルビを振らないのか、一貫性がありません。

また、「チャン・チェ・シー」という読み方については、ネットのウイキペディアを見ると、蒋介石のつづりが、英語版、フランス語版、ドイツ語版、スペイン語など、共にChiang Kai-shek(チャン・カイ・シェック)となっております。ロシア語はЧан Кайши(チャン・カイ・シー)で中間派です。

ルビを振るなら、将来子供たちが外国の本を読んだり、外国語を話したりする時の為にも、主要国で共通に使われているつづりと発音「チャン・カイ・シェック」を採用するのが常識的でありましょう。そして、どうしても必要なら「チャン・チェ・シー」という発音もある、と注で解説すればよいと思います。

また、日本語のルビを振っているのなら、なぜ索引の「さ」に載せないのでしょうか。これは明らかに偏向だと思います。


このような実例を見、また今回の南京事件の記述を考え合せる時、残念ながら御社教科書の内容をどこまで信用してよいのか。本当にこの教科書を子供たちに読ませて良いのか。そして、この教科書で育った子供たちは、将来どうなるのか。まことに危惧の念を抱かざるを得ません。


さて、これから本題に戻り、「南京虐殺」の「国際的な非難」に関して、具体的に質問させていただきます。今回は長くなるので、質問の項目だけを先に列挙します。

質問1:「国際的な非難」の御社と私の解釈の違いにつき教えていただきたい。

質問2:「国際的な非難」の件数について教えていただきたい。

質問3:ご回答の中の記事は「国際的な非難」にしては「非難」の仕方が弱い。「非難」に当たらないのではないか。

質問4:国民党政府や蒋介石、また各国政府や国際連盟の非難の有無に関して「資料が無いから分からない」と言われるが、一部だけ取り上げ、関連する他の事柄を取り上げないのは、公平さを欠き、著しく偏っているのではないか。

質問5:国民党政府側に「南京虐殺」の記録が無いが、これは「国際的な非難」があったという事と矛盾するのではないか。

質問6:外国政府は非難していないが、どうお考えか。

質問7:国際連盟は非難していないが、どうお考えか。

質問8:『ニューヨーク・タイムズ』の記事は、国民党の顧問をしている人物から渡された資料を基に、蒋介石と関係を持つ米国人記者が書いたもので、信憑性がないのではないか。

質問9:『チャイナ・トゥディ』は孫引きだから、信用できないのではないか。

質問10:『マンチェスター・ガーディアン・ウィークリー』の記事は国民党政府の工作員が書いた記事で、信用できないのではないか。

以上が質問の要旨です。以下、個別に質問させていただきます。


質問1:「国際的な非難」の御社と私の解釈の違いにつき教えていただきたい。

 今回、御社のご回答において、次のように書かれております。

『「国際的に非難された」という記述に関して、岡田様のお考えになる「国際的な非難」と教科書で記述されている「国際的な非難」には乖離があるように思われます。』<引用終わり>

 私は、御社発行の中学用教科書、新編『新しい社会 歴史』(平成17330日検定済、平成19210日発行版)の188ページの南京事件に関する欄外の注①

『この事件は南京大虐殺として国際的に非難されましたが、国民には知らされませんでした。』

これを読んだ時、「国際的に非難された」という文章を、世界の多くの国において日本に対する非難が多数あった、と理解しました。今もそう思っています。

 「国際的な非難」について、御社と私の考えがどのように乖離しているのか教えていただきたい。


質問2:「国際的な非難」の件数について教えていただきたい。

 私が前回の公開質問状で、日本非難の外国報道を30例ほど挙げて頂きたいとお願いしましたが、御回答では、『ニューヨーク・タイムズ』、『チャイナ・トゥディ』、『マンチェスター・ガーディアン・ウィークリー』の3例しか挙げられておりません。ご回答で

 「これ以外では、『南京事件資料集 1 アメリカ関係資料編』に、『新聞に報道された南京事件』としてまとめられております。シカゴ・デイリー・ニューズなどの新聞や、ライフなど雑誌の報道がまとめられておりますので、ご参照いただければ幸いです」

とのことですが、「国際的な非難」が果たしてどのぐらいあったのか、大体の数で結構です、教えていただきたい。

また資料集があるから、それを『ご参照いただければ幸いです』とのことですが、疑問があるのなら自分で調べよ、というのは責任転嫁のような気が致します。『国際的な非難』があったと書かれたのが御社であれば、御社が実例を挙げるべきだと思いますが、いかがでしょうか。
 
こう申し上げるのも、まず3件では少な過ぎます。その上、上記に説明したように、この3件がまったく信用できないものだからであります。

この3件以外にあるのであれば、それらも具体的に示していただきたい。少なくとも30例ぐらいは挙げていただきたいものです。

なお、『ライフ』の名が出ていましたので、関連して申しますが、アメリカの週刊雑誌『ニューズ・ウイーク』の当時の記事の目次には「南京虐殺」の言葉、あるいは非難の言葉がありません。

『ニューズ・ウイーク日本語版別冊 激動の昭和1933~1951(TBSブリタニカ,1898)によると、当時の記事の目次は次の通り。

19371220日号 「南京陥落、蒋介石は逃亡」
19371227日号 「日本軍、パネー号を撃沈」
1938 124日号 「中国の戦闘続行を御前会議で決定」
1938 5 9日号 「中国軍に独ソが助っ人」
1938 7 1日号 「日中戦争の一年」

 御社ご回答で、名前の出ている『ライフ』の記事を紹介していただきたい。また雑誌『タイム』はどうだったのでしょうか、知りたいものです。


質問3:ご回答の中の記事は「国際的な非難」にしては「非難」の仕方が弱い。「非難」には当たらないのではないか。

『チャイナ・トゥディ』は、文章が挙げられていないので、その内容が分かりませんが、『ニューヨーク・タイムズ』の記事に関しては、下記の文章を引用されました。

「南京における大虐殺行為と蛮行によって、日本軍は南京の中国市民及び外国人から尊敬と信頼を受ける乏しい機会を失ってしまった」(19371218日、ニューヨーク・タイムズ)

上記記事の、「尊敬と信頼を受ける乏しい機会を失ってしまった」という表現は、「非難」としては弱すぎるのではないでしょうか。「大虐殺行為」とは余りにも不釣合いな、おだやかで、遠慮した、遠まわしの表現です。本当に「大虐殺」があったのなら、もっと激しい表現があってしかるべきです。素直に読んでおかしな文章です。

 また、『マンチェスター・ガーディアン・ウィークリー』の記事ですが

「日本軍の略奪と暴行 『マンチェスター・ガーディアン・ウィークリー』の上海特派員は、ここ久しく日本軍の南京虐殺に関する記事を、軍の検閲により差し止めされていた。記者がこのことについて抗議すると、記事は「誇張が過ぎる」、「真実を述べていない」と片付けられた。ところが、南京の情報が直接入手されるようになった今、日本軍のテロ行為を詳しく明らかにすることが可能となった。」(マンチェスター・ガーディアン・ウィークリー1938211日号)

この記事の中で奇妙なことは、「日本軍のテロ行為を詳しく明らかにすることが可能となった」と書いていますが、「日本軍の南京虐殺」や「日本軍のテロ行為」を「非難」する言葉がありません。そもそも「非難」しているのか「賞賛」しているのか分からない文章です。

例えば、この記事の中の二つの言葉を別の言葉に入れ替えたらどうなるか、すなわち
日本軍           ――> フランス人
略奪と暴行、虐殺、テロ行為 ――> 人命救助
すると

フランス人人命救助 『マンチェスター・ガーディアン・ウィークリー』の上海特派員は、ここ久しくフランス人の南京人命救助に関する記事を、軍の検閲により差し止めされていた。記者がこのことについて抗議すると、記事は「誇張が過ぎる」、「真実を述べていない」と片付けられた。ところが、南京の情報が直接入手されるようになった今、フランス人人命救助を詳しく明らかにすることが可能となった。」

これは、それなりに意味の通った文章になります。

 元の文章が南京虐殺を「非難」した文章であれば、この文章もフランス人の人命救助を「非難」した文章ということになります。しかし、普通に読めばフランス人の人命救助を非難しているとは読めません。

やはり、この記事は、日本軍の南京虐殺への「非難」ではなく、日本の検閲に関しての「非難」ではないでしょうか。
 御社のご見解をお尋ねしたい。


質問4:国民党政府や蒋介石、また各国政府や国際連盟の非難の有無に関して「資料が無いから分からない」と言われるが、一部だけ取り上げ、関連する他の事柄を取り上げないのは、公平さを欠き、著しく偏っているのではないか。御社のお考えをお伺いしたい。


質問5:国民党政府側に「南京虐殺」の記録が無いが、これは「国際的な非難」があったという事と矛盾するのではないか。

 私の調べた範囲では、国民党政府も、蒋介石も、「南京虐殺」について何も言っておりません。

蒋介石
 蒋介石は、南京陥落の翌年、1938年7月7日、支那事変(盧溝橋事件)一周年に際し、漢口で声明を発表しています。

 その中で、蒋介石が日本を非難する際に例として挙げた都市は、「南京」ではなく「広東」でした。蒋介石の演説は次の通りです。

 『広東を例にとろう。この町は過去二週間にわたって昼も夜も空襲を受け、数千の市民が殺された。(略)この惨状を直接目撃した外国人たちは報告書を書いた。映画作品を作った。そうして、支那における野蛮な日本軍の比類なき残酷さを明らかにしたのである。』
(東中野修道『南京虐殺の徹底検証』展転社、p345

支那軍の何應欽上将も、何も言っていない
南京は昭和121213日に陥落したが、その翌年、昭和13年春、漢口で開催された中華民国の臨時全国代表者大会において、国民党軍の何應欽上将(大将)が、昭和1277日の盧溝橋事件から昭和132月までの軍事報告を行っておりますが、「南京虐殺」について何も言っておりません。
(田中正明『南京事件の総括』展転社P.204

国民党政府の機密文書も何も言っていない
 南京戦当時、国民党政府の宣伝機関「中央宣伝部」によって作られた極秘資料『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』が台湾で見つかりました。それによると

 中央宣伝部は、1937121日から19381024日まで、漢口において
外国人記者を相手に300回の記者会見を行っています。
(東中野修道『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』(草思社)p.47

 しかし、記者会見で「南京虐殺」の事がまったく話題に上っていないのです。

 「『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』のすべてを丁寧に見ても、どこにも南京の「虐殺」「殺人」が出てこない。南京で大虐殺があったのであれば、中央宣伝部のどの課もこれを大いに宣伝した、と極秘文書に記していて当然であったのに、それが無かった。なんとも不思議であった」
(東中野修道『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』(草思社)p.21

 これに関連して日本側の事例を挙げれば、昭和13年夏、上海の外国人記者団、15,6名が南京戦跡視察をします。その時、同盟通信社の南京特派員記者小山武夫が通訳として案内しますが、彼は、外国人記者からは「南京虐殺」の話しはまったく出なかったし、自分も聞いたことが無い、と語っております。
(田中正明『南京事件の総括』展転社P.226

また、南京攻略戦を行った中支那方面軍総司令官松井石根大将が、外国人記者と二回にわたって記者会見を行なっていますが、外国人記者たちからは「南京虐殺」について何も聞かれていません。
(田中正明『南京事件の総括』展転社P.227

 以上の如く、被害国の中華民国政府や、その関係者たち、また外国人記者たちが「南京虐殺」について何も言っておりません。また国民党政府の機密文書にもその記載がありません。にもかかわらず、「国際的な非難」があったということは大きな矛盾であります。

この矛盾をどう思われるか、東京書籍さんのお考えをお聞きしたい。


質問6:外国政府は非難していないが、どうお考えでしょうか。

所謂「南京大虐殺」に関し、外国政府で何カ国が日本を非難したか、お尋ねしましたが、「資料が無いから分からない」とのことでした。

 私は不勉強で、まだ外国政府が「南京虐殺」を非難したと書いている本を読んだことがありません。もし、ありましたらご紹介ください。

当時、外国政府が日本を非難した例としては、昭和12922日、アメリカ、イギリス、フランスの三国が日本の南京空爆に対し抗議しています。しかし、「南京虐殺」の抗議はありません。

また、南京攻略戦においては、日本軍爆撃機の誤爆による米砲艦パネー号撃沈事件と英砲艦レディーバード号砲撃事件に対する非難はありますが、「南京虐殺」の非難はありません。
(田中正明『南京事件の総括』展転社P.215

外国政府の非難が無いという事は、「国際的な非難」があったと云う事と矛盾すると思います。

これについて御社のご意見をお聞かせください。


質問7:国際連盟は非難していないが、どうお考えでしょうか。

国際連盟が、所謂「南京大虐殺」で日本を非難したかどうか、お尋ねしましたが、「資料が無いから分からない」とのことでした。

「国際的な非難」といえば、国際連盟です。この問題を考える上で最低限確認することの一つが「国際連盟が非難したかどうか」ではないでしょうか。それも確認せずに「国際的な非難」があったと断定するのはあまりにも乱暴ではないでしょうか。

 田中正明氏によれば、
昭和128月~10月の国際連盟第18回総会で「南京・広東に対する日本の空爆に対する非難」が採択された。
昭和121213日、南京陥落。
昭和1323日、国際連盟第100回理事会で、「支那を支援する決議案」が可決された。しかし、議決案の中に日本の名前も出ず、日本を名指した非難も無い。もちろん「南京虐殺」の非難もありません。
(田中正明『南京事件の総括』展転社P.214

 「南京虐殺」があったとされる南京戦の直後、2ヶ月も経たない時に開かれた国際連盟で「南京虐殺」の非難が無いと云う事はどう云う事でしょうか。

国際連盟が非難していない事に関し、東京書籍さんの御所見をお伺いしたい。


質問8:『ニューヨーク・タイムズ』の記事は、国民党の顧問をしている人物から渡された資料を基に、蒋介石と関係を持つ米国人記者が書いたもので、信憑性がないのではないか。

 今回の御社回答で、『ニューヨーク・タイムズ』の記事を次のように紹介されました。

 「南京における大虐殺行為と蛮行によって、日本軍は南京の中国市民及び外国人から尊敬と信頼を受ける乏しい機会を失ってしまった」(19371218日、ニューヨーク・タイムズ)

この記事は、同新聞社のティルマン・ダーディン記者の書いたものと思われます。この記事は、その内容、及びその出所が非常に怪しいもので、教科書の記述の根拠になり得ないプロパガンダ記事であると思います。

以下、長くなりますが、東中野修道『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』第五章「アメリカの新聞記事も国民党政府中央宣伝部の宣伝戦だったのか」
から、この記事の前後関係をまとめてみます。

『ニューヨーク・タイムズ』のダーディン記者は当時南京におり、昭和121213日、南京が陥落します。その2日後、1215日、4人の外国人報道関係者と共に南京を離れます。
その4人とは、『シカゴ・デイリー・ニューズ』のアーチボルト・スティール記者、『パラマウント・ニュース映画社』のアーサー・メンケン、英国『ロイター通信』のLC・スミス、米国『AP通信』のイェイツ・マクダニエルの各氏です。 
彼らが揚子江に面した港町下関から南京を去ろうとした時、南京大学教授マイナー・ベイツなる人物が彼等にメモを渡します。
そして、『ニューヨーク・タイムズ』のダーディン記者と『シカゴ・デイリー・ニューズ』のスティール記者が、そのメモを基にしたと思われる南京虐殺記事を書きます。
しかし、残りの3名、アーチボルト・スティール記者、アーサー・メンケン、LC・スミス、イェイツ・マクダニエルは、ダーディンやスティールのような南京虐殺記事を書いていません。
さらに、マイナー・ベイツ教授は、同じメモをハロルド・ティンパーリーなる人物に渡し、それをティンパーリーは自分の著書『戦争とは何か』に載せています。
(東中野修道『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』草思社p120

以上が概略ですが、ここに出てくるダーディンとベイツが如何なる人物であるかが問題となります。

まず、『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン記者と国民党政府の関係を見ておきます。

昭和12年(1937年)77日、支那軍側の発砲によって引き起こされた盧溝橋事件以後、日本側の不拡大方針にもかかわらず、支那軍の軍事的挑発が続き、いよいよ813日、上海において支那軍側が日本軍に攻撃を仕掛け、翌14日、国民党軍機による上海無差別爆撃で第二次上海事変が勃発します。その後、日本軍の攻勢の前に劣勢に立った国民党政府の蒋介石は、「宣伝は作戦に優先する」として、111日、漢口に中央宣伝部を置き、日本に対して国際的なプロパガンダ戦を展開します。
(東中野修道『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』草思社p31

その中央宣伝部副部長であった董顕光が彼の自伝の中でダーディン記者の事を次のように書いています。

「十一月十九日になると、私の『大陸報』時代の同僚で、現在は『ニューヨーク・タイムズ』の中国大陸駐在記者であるダーディンが私のオフィスに駆け込んで来て、すでに蘇州は陥落したという悪いニュースを持ってきた。その翌日、私は蒋(介石)委員長から直ちに南京を離れて漢口へ行くようにとの命令を受け、蒋委員長は、私と曾虚白の乗るその夜の船を予約してくれた。ところが突然、蒋委員長から、ダーディンに渡して『ニューヨーク・タイムズ』へ発表する電報文の内容を翻訳して欲しいという要請があった。」
(東中野修道『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』草思社p42
岡田注:文中のダーディンの名は漢字ですが、パソコンで出ない漢字なのでカタカナに変更)

ダーディンは、蒋介石や中央宣伝部の人間と関係を持つ人物だったのです。

次に、新聞記者たちにメモを渡したマイナー・ベイツ教授なる人物が如何なる人物であるかと云う事です。それに関して東中野修道氏が米国イェール大学所蔵の南京関係文書の中で見つけたベイツ教授の新聞記事を紹介しています。

『中国の首都南京の城門を攻める日本軍の砲撃がこだます中、それにひるむことなく、オハイオ州ハイアラム出身の南京大学歴史学教授にして、中華民国政府顧問のマイナー・サール・ベイツ博士は、城壁で囲まれた南京城内の自らの持ち場を離れることを拒否した。(以下省略)』
(東中野修道『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』草思社p.119

ベイツ教授は国民党側の人間だったのです。後に書きますが、ベイツ教授と同様に国民党政府の顧問であったハロルド・ティンパーリーなる人物が国民党政府中央宣伝部国際宣伝処からお金をもらってプロパガンダ本『戦争とは何か』を書きます。その本の制作にベイツ教授は協力し、匿名の原稿を書いています。

ベイツ教授は、次のように書いています。

「非武装の四万人近い人間が南京城内や城壁近くで殺されたことを埋葬証拠は示している。そのうちの約三割は決して兵士ではなかった」
(東中野修道『徹底検証』p.330

四万人の三割は一万二千人です。ベイツ教授は戦後の東京裁判に証人として出廷して、この数字を次のように証言します。

「われわれは安全地帯及びその付近の地方について出来るだけ調査し、スミス氏および私はいろいろな調査・観察の結果、我々が確かに知っている範囲内で、一万二千人の男女および子供を含む非戦闘員が殺されたことを結論とする」
(冨士信夫『『南京大虐殺』はこうして作られた』展転社p.29
しかし、ここに奇妙なことがあります。『戦争とは何か』に収録されたベイツ教授の文章は、その後、下記に示す四冊の中華民国の公式記録に引用採録されます。
徐淑希編『日本人の戦争行為』1938412日(序文日付)
徐淑希編『要約・日本人の戦争行為』1939128日(序文日付)
『チャイナ・イヤーブック1938~391939315日(序文日付, 徐淑希執筆)
徐淑希編『南京安全地帯の記録』193959日(序文日付)

 ところが、ベイツの文章を再録したこれら四冊の本において、

「非武装の四万人近い人間が南京城内や城壁近くで殺されたことを埋葬証拠は示している。そのうちの約三割は決して兵士ではなかった」

という肝心な部分が、四冊総てにおいて削除されます。
(東中野修道『南京虐殺の徹底検証』展転社、p358

中華民国政府が公式記録の本の中から「四万人虐殺」の部分だけを削除したのは、中華民国政府もベイツの「四万人虐殺」を認めていなかった証拠でありましょう。

東中野修道『南京虐殺の徹底検証』の裏表紙に、「四万人虐殺」が書かれている『戦争とは何か』のページと、それが削除された『チャイナ・イヤーブック』のページの写真が並べて示されています。

また、ベイツ教授に関しては、もう一つ奇妙な事があります。

南京陥落後しばらくして、東京の在日アメリカ大使館の駐在武官キャボット・コービルが視察のために南京にやって来ます。その時コービルはベイツ教授にも会って情報収集をしています。しかし、コービルの報告書にはベイツの「四万人虐殺説」が書かれておりません。

と言う事は ベイツ教授は「四万人虐殺」をコービルには話さなかった事になります。話していれば、当然大事件ですからコービルも書いた筈です。

逆に、コービルの報告書に書かれているものは、在南京アメリカ大使館のアリソン領事がコービルに語った報告で、それは

「日本軍の略奪、強姦が数週間も続いた」
(東中野修道『南京虐殺の徹底検証』展転社、p226

というものです。

注意すべきことは、「略奪」「強姦」という言葉はあっても、「殺人」「虐殺」という言葉が無い、と云う事です。

「殺人」があったのなら、略奪や強姦よりも事は重大ですから、当然アリソンはコービルに「殺人」の事を話したはずです。しかし「殺人」の言葉が無いと云う事は、アリソンは殺人を目撃せず、話も聞かなかったから、コービルに話さなかったのでありましょう。

ベイツ教授は、身内であるアメリカ人のコービル武官には、「四万人虐殺」を報告せず、その8年後の東京裁判では証人として「四万人虐殺」を証言します。

ベイツ教授は、時と場合と相手によって違う事を言う人物である、と云う事になります。一般にこう云う人を嘘つきと言います。

以上がダーディン記者とベイツ教授が如何なる人物であったかと云う事です。

続いて、問題の新聞記事に移ります。

この新聞記事に関して、東中野修道氏が、ベイツ教授とダーディン記者、スティール記者の三人の記事を比較して並べたものがありますので、それを以下に引用します。

 以下のダーディン記者の記事が、今回御社が示された新聞記事だと思います。

ベイツ教授メモ(『戦争とは何か』)
「日本軍はすでにかなり評判を落としており、中国市民の尊敬と外国人の評判を得るせっかくの機会さえ無にしてしまいました。
スティール記者の記事(「シカゴ・ディリー・ニューズ」)
「日本軍は中国市民の同情を獲得できる、またとないチャンスを、自らの蛮行により失おうとしている。
ダーディン記者の記事(「ニューヨーク・タイムズ」)
「日本軍は現地の中国住民および外国人からの尊敬と信頼が得られるはずの、またとない機会を逃してしまった。

ベイツ教授
日本軍の入城によって・・・安心した気持を示した住民も多かったのです。
スティール記者
日本軍が入城してきたときには、かすかな安堵感が南京に漂った。
ダーディン記者
日本軍が南京城内の支配・・・安堵の空気が一般市民の間に広がった。

ベイツ教授
事態の見通しはすっかり暗くなってしまった
スティール記者
その幻想はたちまち崩れてしまった。
ダーディン記者
この見込みは一転した

ベイツ教授
恐怖と興奮にかられて駆けだす者、日が暮れてから路上で巡警につかまった者は、だれでも即座に殺されたようです。
スティール記者
日本の機関銃隊が月明かりの中、街路を走行し、走る者なら誰でも・・・・射殺した。
ダーディン記者
恐怖のあまり興奮して逃げ出す者や、日が暮れてから…巡回中のパトロールに捕まった者は、誰でも射殺される恐れがあった。

ベイツ教授
市内を見回った外国人は、この時、通りには市民の死体が多数転がっていたと報告…
スティール記者
市内の通りには至る所に市民の死体…・・外国人が見た事実による
ダーディン記者
市内を広範囲に見て回った外国人は、いずれの通りでも民間人の死体を目にした

ベイツ教授
収容所や避難所の多数の難民は…お金や貴重品を奪われた
スティール記者
日本軍は難民キャンプにも押し入り、貧しいものからなけなしのお金を巻き上げた。
ダーディン記者
難民センターを物色し金や貴金属を奪い、時に不運な難民から身ぐるみ剥いでいく・・・・

ベイツ教授
鼓楼医院職員は現金や時計を奪われ、看護婦宿舎からも所持品が奪われ・・・・
スティール記者
アメリカ人経営の大学病院(鼓楼医院)では、日本軍は看護婦から金や時計を奪った
ダーディン記者
大学病院の職員は現金と時計を奪われた。看護婦の宿舎からも品物が持ち去られた

ベイツ教授
日本軍は旗を引き下ろしてから自動車やその他の財産を強奪
スティール記者
アメリカ人所有の車を少なくとも二台盗み、車についていた国旗を引き裂いた
ダーディン記者
外国国旗は引き裂かれ、少なくとも三台の外国人自動車が無くなった

ベイツ教授
日本兵に脅迫された地元の警察官によって400人が引き出され、50人ずつ一組に縛られ、小銃を持った兵隊と機関銃を持った兵隊に挟まれて護送されて行きました
スティール記者
(記載なし)
ダーディン記者
400人の男性が逮捕された。彼らは50人ずつ数珠繋ぎに縛りあげられ、小銃や機関銃兵の隊列に挟まれて処刑場に連行されていった

<引用終わり>
(東中野『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』p.122)

以上の如く、スティールとダーディン両記者の記事が、ベイツ教授のメモを基に書かれたことは明らかです。

国民党政府の顧問がメモを提供し、蒋介石と繋がりのある新聞記者が書いた記事は、当然プロパガンダ記事であると疑わざるを得ません。このような記事を「国際的な非難」の根拠としてよいものでありましょうか。

この件につき、東京書籍さんの見解をお聞かせください。


質問9:『チャイナ・トゥディ』は孫引きだから信用できないのではないか。

この『チャイナ・ドゥデイ』の記事に関して東中野氏がこう書いています。

「アメリカ本国で出版されていた『チャイナ・トゥディ』に、ピーター・ニールセンの「南京虐殺事件」が出る。その19381月号で、彼はダーディンの1218日付の記事を根拠として、南京で「平和な市民の大量虐殺が起きた」mass murder of peaceful civilians と論じた。」
(東中野修道『「南京虐殺」の徹底的検証』展転社、p.224

 『チャイナ・トゥディ』の記事がダーディンの記事を根拠としている以上、
ダーディンの記事以上に信用できません。

この件につき、御社の御所見をお伺いしたい。


質問10:『マンチェスター・ガーディアン・ウィークリー』の記事は国民党政府の工作員が書いた記事で、信用できないのではないか。

 次に、『マンチェスター・ガーディアン・ウィークリー』の記事についての質問です。御社が引用された文章は以下の通りです。

「日本軍の略奪と暴行 『マンチェスター・ガーディアン・ウィークリー』の上海特派員は、ここ久しく日本軍の南京虐殺に関する記事を、軍の検閲により差し止めされていた。記者がこのことについて抗議すると、記事は「誇張が過ぎる」、「真実を述べていない」と片付けられた。ところが、南京の情報が直接入手されるようになった今、日本軍のテロ行為を詳しく明らかにすることが可能となった。」(マンチェスター・ガーディアン・ウィークリー1938211日号)

 まず第一点。これを書いた人物がどういう人間であったか、と云うことです。
御社はこの記事を書いた人物の名前を書かれておりませんが、この記事の中の『マンチェスター・ガーディアン・ウィークリー』の上海特派員とは、ハロルド・ティンパーリーのことではないでしょうか。

そうであるとすれば、ハロルド・ティンパーリーなる人物も、マイナー・ベイツ同様国民党の顧問であったことが明らかにされています。

ジャーナリスト鈴木明氏が、『近代来華外国人名事典』(中国社会科学出版社、198112月出版)に載っているティンパーリーの経歴を紹介しています。

「ティエンパレー、ハロルド・ジョン。1898年生まれ。オーストラリア人、第一次世界大戦後中国に来る。ロイター通信の北京記者となる。その後マンチェスター・ガーディアンとAPの北京駐在記者をかねる。1937年盧溝橋事件後、国民党政府は彼を英米に向けて派遣し、宣伝工作に当たらせ、ついで国民党中央宣伝部の顧問に任命した。編著に『中国における日本人の恐怖』(1938年)一書がある。」
(鈴木明『新「南京大虐殺」のまぼろし』飛鳥新社p.292

また、立命館大学北村稔教授が、著書『「南京事件」の探求』の中で、国民党中央宣伝部国際宣伝処の処長であった曾虚白の自伝『曾虚白自伝』を紹介し、その自伝の中からティンパーリーに関する部分を次のように引用しています。

『曾虚白自伝』(聯經出版事業公司、台北、台湾、1988年)
「ティンパーリーは都合のよい事に、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に上海の『抗戦委員会』に参加していた三人の重要人物のうちの一人であった。オーストラリア人である。
そういうわけで彼が(南京から)上海に到着すると、我々は直ちに彼と連絡をとった。そして彼に香港から飛行機で漢口{南京陥落直後の国民政府所在地}に来てもらい、直接に会ってすべてを相談した。我々は秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。
我々は、目下の国際宣伝においては、中国人は絶対に顔を出すべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。ティンパーリーは理想的人選であった。
かくして我々は手始めに、金を使ってティンパーリーとティンパーリー経由でスマイス(南京大学教授)に依頼して、日本軍の南京虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した。(中略)
 この後ティンパーリーはその通りにやり、(中略)二つの書物は売れ行きの良い書物となり、宣伝の目的を達した」
(北村稔『「南京事件」の探求』文春新書p.43

なお、上記の二冊のうちの一冊が、ティンパーリーの『戦争とは何か』(支那語版:「外人目睹中之日軍暴行」)であり、この本は長く南京大虐殺の証拠とされてきました。

例えば、洞富雄『決定版南京虐殺』徳間書房(p.60)、秦郁彦『南京事件』中公新書(p.9)、また中国側の書籍として南京市文史資料研究会編、加々美光行、姫田光義訳、『証言・南京大虐殺』青木書店(p.70)などです。

しかし、曾虚白の自伝にも見るように、今では『戦争とは何か』がプロパガンダ本であることが判明しております。
 
そして、同様の事が、台湾の台北にある国民党党史館で見つかった極秘資料『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』の中にも書かれています。

<引用>
「対敵課工作概要」のなかの「(1)対敵宣伝本の編集製作」
1:単行本
本処(国際宣伝処)が編集印刷した対敵宣伝書籍は次の二種類である。
A 『外人目睹中之日軍暴行』
この本は英国の名記者田伯烈(ティンパーレー)が著わした。内容は、敵軍が19371213日に南京に侵入したあとの姦淫、放火、略奪、要するに極悪非道の行為に触れ、軍規の退廃及び人間性の堕落した状況についても等しく詳細に記録している。(以下略)
<引用終わり>
(東中野『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』p.19)

また曾虚白は、ティンパーリーと国際宣伝処の海外宣伝組織についても以下のように述べています。

「われわれはティンパーリーと相談して、彼に国際宣伝処のアメリカでの責任者になってもらうことになり、トランス・パシフィック・ニューズ・サービス(Trans Pacific News Service)の名の下にアメリカでニュースを流すことを決定した。同時に、アール・リーフ(Earl Leaf)がニューヨークの事務を、ヘンリー・エヴァンス(Henry Evans)がシカゴの事務を、マルコム・ロショルト(Malcolm Rosholt)がサンフランシスコの事務を取り仕切ることになった。これらの人々はみな経験を有するアメリカの記者であった。(中略)われわれの宣伝はアメリカに重点を置いたが、英国と香港の持つ宣伝上の通路としての役割にも留意した。上海の持っている、敵後方との連携工作の場所という役割にも留意しなければならなかった。(中略)夏晉麟に要請してロンドンではトランス・パシフィック・ニューズ・サービス(Trance Pacific News Service)駐在事務所の名前で宣伝組織を設けさせた。」
(北村稔『「南京事件」の探求』文春新書p.44

 以上のごとく国民党政府の謀略機関における外国人工作員の中心人物がティンパーレーであり、支那はもちろん、アメリカ、イギリスに謀略網を作る責任者でもあったのです。

斯くの如き国民党政府工作員の書いた新聞記事が、果たして信用出来るものでありましょうか。

 この件につき、東京書籍さんのご所見をお尋ねします。

 また、ご紹介いただいた記事の中で、ティンパーリーは
「ここ久しく日本軍の南京虐殺に関する記事を、軍の検閲により差し止めされていた。」

と述べています。このことについて、秦郁彦氏も『南京事件』の中で

「前年末からティンパーリーは憲兵隊や特務機関に目をつけられ手厳しい監視下に置かれ、彼が本社へ送る電報記事は上海国際電報局の日本人検閲官に妨害された。送稿はズタズタに切られ、特に一月十七日と二十日に送ろうとした南京事件に関する記事は全面的に差し止められていた。不用意に行動していたら、この本(『戦争とは何か』)の原稿も日の目を見ないままに葬られていたかもしれなかった」
(秦郁彦氏『南京事件』中公新書p.10

と、ティンパーリーを弁護していますが、少し考えると辻褄が合わなのです。

この日本軍の検閲事件に関して、北村稔氏は『南京事件の探求』の中で下記の如く疑問を呈しています。

「ティンパーリーの主張する出来事は、確かに日本側による報道検閲である。しかしティンパーリーには、日本側が干渉できない航空便や無線で記事を送ることも可能であったはずである。ニューヨーク・タイムズのダーディンなどは、長い記事は上海から航空便で送っている」
(北村稔『「南京事件」の探求』文春文庫p.49

調べてみると、確かにダーディン記者は航空便を使っています。

「アメリカ人記者が見た南京攻防戦の一部始終は、十二月二十二日発で上海から航空便で送られたニューヨーク・タイムズ本社宛のダーディンの記事が最も詳しくわかりやすい」
(松村俊夫『「南京虐殺」への大疑問』展転社p.24

また『ロンドン・タイムズ』のコーリン・M・マクドナルド記者は1217日上海発の記事を書いて、その記事が翌18日には『ロンドン・タイムズ』紙に載っている。(松村俊夫、同上p.41
翌日イギリスで記事が載るということは、マクドナルド記者はおそらく電信を使ったのでしょう。
 他の新聞記者が本国に記事を送っているのに、ティンパーリー記者だけが送れなかったと云うのもおかしな話であります。

 また、東中野氏がこう言っています。

「彼(ティンパーリー)が本当に「揚子江デルタ地帯三十万人虐殺」を確実に打電したかったのであれば、上海のフランス租界や英米人の支配する共同租界で電報を打てばよかった」
(東中野修道『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』草思社p139

 故に、日本軍による検閲事件は、ティンパーリーが国民党政府の工作員として、日本を悪者に仕立てる為に、わざと日本側に検閲させて大きな事件にしようとした宣伝工作の一環と考えざるを得ません。

 ついでに申しますと、ティンパーリーが検閲で止められた記事は上記の「揚子江デルタ地帯三十万人虐殺」でありますが、この「三十万人虐殺」が嘘であることをティンパーリー本人がベイツ教授に送った手紙の中で告白しています。

 「上海付近の民衆に対する日本軍の暴行については、確実な証拠がほとんど見つかりません」
(東中野修道『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』草思社p138

  本人が「確実な証拠も無い」と認めている大嘘の「三十万人虐殺」記事を差し止めた日本の検閲は当然の事で、正しい事です。しかし、ティンパーリーは、その検閲を利用したのです。

 「序文を書いた編者のティンパーリー記者は、『戦争とは何か』編集のいきさつについて次のように記している。『昨年(1937年)12月、南京を占領した日本軍が中国市民に対して行った暴行を報ずる電報が、上海国際電報局の日本側電報検閲官に差し押さえられるという事実が無かったならば、おそらくこの本が書かれることはなかったであろう』」
(東中野修道『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』草思社p137


以上、見てきたように、国民党政府の顧問であり、かつ工作員であった人物ティンパーレーの書いた記事を、果たして信用する事が出来るでしょうか。

それを根拠に、『国際的な非難』があったと言えるのでしょうか。

ティンパーリーの記事に関して、東京書籍様のご見解をお聞きかせ下さい。


 以上、長くなりましたが、質問を終ります。

 御社の回答をお待ちいたします。

 なお、御社の回答は公開するつもりでおりますので、公開を前提にご回答を下さいます様、お願い致します。
また、今回、私方の質問がかなり遅れましたので、今までのように2週以内に返事をくれとは申しません。御社の返事も大体二ヶ月ぐらいの内に頂ければ幸いに存じます。

なお、ご返事は書留でお送り下さいますよう、切手を同封いたします。
敬具


                           〒768-0066
             香川県 観音寺市 昭和町 1-7-5
                岡田 隆志