平成23年8月18日
平成24年度採択対象中学歴史教科書に関する意見
その2
聖徳太子の隋皇帝煬帝への手紙「日出づる処の天子」
について各教科書の比較
≪聖徳太子の隋への手紙「日出づる処の天子」を載せているか≫
この聖徳太子の隋の煬帝への手紙は、大帝国隋に対して日本が独立国である事を宣言した重要な歴史的文書である。
各教科書が、この手紙をどのように扱っているかによって、それぞれの教科書会社が日本の独立をどのように考えているかが明らかになる。
まず、評価の結果は、下記の通り。
<評価の結果>
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| 自 由 社 | 育 鵬 社 | 日 本 文 教 出 版 | 帝 国 書 院 | 教 育 出 版 | 東 京 書 籍 | 清 水 書 院 |
手紙:日出づる処の天子 | ○ | ○* | × | △ | △ | × | × |
隋の皇帝煬帝の名前 | ○ | △ | × | × | △ | × | × |
遣隋使の説明の分量 | 31行 | 18行 | 5行 | 5行 | 7行 | 4行 | 3行 |
評価 | 5点 | 4点 | 0点 | 1点 | 2点 | 0点 | 0点 |
説明の内容 | 5点 | 5点 | -5点 | 1点 | 2点 | 0点 | 1点 |
総合評価 | 10点 | 8点 | -5点 | 2点 | 4点 | 0点 | 1点 |
○:本文 ○*:コラム △:欄外 ×:記載なし
聖徳太子の手紙を、自由社は本文に、育鵬社はコラムに、帝国書院、教育出版は、欄外の資料として載せている。
しかし、日本文教出版、東京書籍、清水書院はまったくこの手紙を出していない。
評価の項目は下記の4点である。
<評価の項目>
1:聖徳太子の手紙「日出づる処の天子」を載せているか
2:隋の皇帝煬帝の名は載っているか
3:遣隋使、聖徳太子の手紙の説明の分量はどうか
4:説明の内容は適切か
さて、各教科書の評価は以下の通り。
自由社 (手紙「日出づる処」有り 本文中)評価5点
<本文>
『12 遣隋使と天皇号の始まり
遣隋使の派遣
国内の改革に成功した聖徳太子は、607年、再び遣隋使を派遣しました。代表に選ばれた小野妹子は、地方豪族の出身だったが、冠位十二階の制度で才能を認められ取り立てられた、優れた人物だった。
この時の隋の皇帝にあてた手紙には、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」と書かれていた。大使は、手紙の文面で対等の立場を強調すると事で、隋に決して服属しないという決意を表明したのだった。
隋の皇帝・煬帝は、この手紙を無礼だとして激怒した。朝貢国が、世界に一人しか存在しない皇帝の別名である天子という称号を自らの君主の称号として用いるのは、許しがたい事だった。
しかし、高句麗との戦争を控えていた煬帝は、日本と高句麗が手を結ぶことを恐れて自重し、帰国する小野妹子に返礼の使いをつけた。
天皇号の始まり
翌年の608年、3回目の遣唐使を派遣する事になった。その時、国書に記す君主の称号をどうするかが問題となった。中国の皇帝の怒りを買った以上、中国の君主と同じ称号を唱える事は出来ない。しかし、再び「王」と称し中国に冊封される道を選びたくなかった。
そこで、この時の手紙には、「東の天皇つつしみて、西の皇帝にもうす」と書かれた。皇帝の文字を避ける事で隋の立場に配慮しつつも、「皇」の文字を自らの称号に使う事で、両国が対等である事を表現したのである。これが、天皇という称号が使われた始まりだった。日本の自立の姿勢を示す天皇の称号は、その後も使われ続け、途切れることなく今日にいたっている。』p.52-53
<欄外小コラム>
『歴史の言葉 【天皇・皇帝】
「皇」は「王」の上に飾りがついた文字で、「王の中の王」「王の上に立つ王」を表す。「皇帝」は秦の始皇帝が使い始めた称号で、皇帝のいる中国の王朝が文明の最も進んだ世界の中心とされ、周辺諸国は中国の皇帝から王の称号を与えられる事で、皇帝に服属した。これを「華夷秩序」という。
日本もかつては、卑弥呼が魏の皇帝から「親魏倭王」の称号を受け、「倭の五王」も王の称号を得た。
608年の遣隋使の国書から使い始めた「天皇」の称号は、「皇」の文字を使うことによって、中国の皇帝と同格である事を主張した事になる。同時に、皇帝を名乗ることは避けて、相手方への配慮をした。以来、日本は天皇の称号を使い続けたが、これは、東アジアの中で、華夷秩序から脱し、自立した国家として歩むという宣言の意味をもった。』(自由社p.53)
<評価> 自由社 (日出づる処 有り 本文中) 評価5点
1:聖徳太子の手紙を本文に出している。
2:隋の皇帝煬帝の名を本文に載せている
3:説明の分量は31行で、7社のうち一番多い
4:説明の内容は適切、かつ十分である
本文に出しているのは自由社1社だけである。大事な事はきちんと本文に記載しないといけない。自由社はそれが出来ている。
隋の煬帝の名前を本文に書かれている。
また、自由社は、「太子は、手紙の文面で対等の立場を強調すると事で、隋に決して服属しないという決意を表明したのだった」と、この手紙の歴史的な意義、即ち日本は隋に隷属しないという意思をはっきりと書いている。
また、説明文章の量が、自由社が一番多い。聖徳太子の手紙と関連して、天皇と皇帝の違い、また、日本の天皇の言葉の成り立ちをきちんと説明している。
7社のうちで一番良く出来ている。
評価出来る。 評価5点
育鵬社 (手紙「日出づる処」有り コラム内) 評価4点
<本文>
『聖徳太子の外交
太子は小野妹子らを中国の隋に派遣しました(遣隋使)。それは、新しい国造りの為に、中国の制度や文化を取り入れるためでした。
607年、大使は隋の皇帝あての手紙を妹子に託し、その中で、わが国が隋と対等な国であることを強調しました。隋の皇帝はこれに激怒しましたが、当時、隋は高句麗と対立していたため、我が国と敵対するのは好ましくないと判断し、妹子らに使者を付き添わせて帰国させました』p.37
<コラム>
『天皇と皇帝 聖徳太子の気概
「皇帝」は、秦の始皇帝以来、中国の歴代王朝の長を示す位でした。皇帝は全世界を支配するものとされ、周辺の国々の長は皇帝から「王」の名を与えられました。国王は皇帝に服属し、貢物を差し出すことで、中国の強大な力や豊かな富、文化の恩恵を得て来たのです。我が国もかつては「倭王」の名前を与えられ、服属国の一つになっていました。
『隋書』には、607年、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」(日が昇る国の天子から、日が沈む国の天子にあてて手紙を送ります。ご無事にお過ごしですか)という手紙が、聖徳太子から隋の皇帝・煬帝に送られた事が記されています。そこには、たとえ小国とはいえ、日本は独立国として中国と対等だという意味が込められています。
また、「日本書紀」には、608年、推古天皇が隋の皇帝に送った手紙に、「東の天皇、つつしみて、西の皇帝に白(もう)す」(東の天皇より、つつしんで西の皇帝に申し上げます)とあり、「王」の称号に変わり、「天皇」の称号が使われた事が記されています。
このように我が国は、聖徳太子の時代にはすでに、中国の影響から抜け出そうとする政治的な動きを示していたのです。
*この時、天皇の称号が初めて使われたとされる。一方、天武天皇(在位673-686)の時代になってからだとする説もある。』(育鵬社 p.32)
<評価> 育鵬社 (手紙「日出づる処」 有り コラム内)評価4点
1:聖徳太子の手紙をコラムに載せている。
2:隋の皇帝煬帝の名をコラムに載せている
3:説明の分量は18行で、7社のうち二番目に多い
4:説明の内容は適切、かつ、十分である
育鵬社は、聖徳太子の手紙を本文に載せていない点が残念。
コラムで取り上げているが、これは大事な事であるから、本文にきちんと記載して欲しかった。また、コラムの字が小さいので、目立たない。中学生は見落とすのではないか。
次に、「太子は隋の皇帝あての手紙を妹子に託し、その中で、わが国が隋と対等な国であることを強調しました」と、手紙の歴史的な意義を書いているので、この点は評価できる。
また、コラムで、「皇帝」、「王」、「天皇」の意味の違い説明をしている所が評価出来る。
聖徳太子の手紙が本文に載っていないのが減点である。残念。
評価は4点。
日本文教出版 (手紙「日出づる処」 無し)評価-5点
<本文>
(東アジアの統一国家)
『蘇我氏と聖徳太子
また、隋と対等の立場で国交を結ぼうとしたほか、進んだ中国の文化を取り入れようとし、小野妹子らの遣隋使を送って、制度や仏教を学ばせました。外交使節や留学生・留学僧には、渡来人が多く採用されました』p.33
(欄外の注)「隋の外交秩序を無視したこの試みはうまくいきませんでしたが、高句麗と対立していた隋は、倭国の遣隋使を受け入れる事にしました」P.32
<評価> 日本文教出版 (手紙「日出づる処」 無し)評価-5点
1:聖徳太子の手紙が無い。
2:隋の皇帝煬帝の名も無い。
3:説明の分量は5行で少ない。
4:説明に嘘がある
聖徳太子の手紙を無視しているので、全く評価できない。
聖徳太子の手紙が無いから、その相手である隋の煬帝の名も無い。
聖徳太子の手紙が無いから、「皇帝」、「王」、「天皇」といった言葉の違いの説明も当然ない。
また、説明に明らかな嘘がある。
本文の『隋と対等の立場で国交を結ぼうとした』事に対して、欄外の注で
『隋の外交秩序を無視したこの試みはうまくいきませんでした』
と否定的に書く。
しかし、自由社や育鵬社の説明によると、小野妹子が日本に帰る時、隋の使節が一緒に来ている。
自由社『高句麗との戦争を控えていた煬帝は、日本と高句麗が手を結ぶことを恐れて自重し、帰国する小野妹子に返礼の使いをつけた』
育鵬社『当時、隋は高句麗と対立していたため、我が国と敵対するのは好ましくないと判断し、妹子らに使者を付き添わせて帰国させました』
と、隋が使者をつけて小野妹子を日本に送り返した事を書いている。これらから判断すれば、聖徳太子の外交的勝利ではなかったのか。
『隋書』よると、
『明年、煬帝、鴻臚寺掌客、裴世清を(日本へ)使わして報使せしむ。小重妹子従って還る。(略)』(小重妹子は小野妹子の事)
(明くる年、煬帝は、鴻臚寺(外交部)の掌客(接待係)の裴世清を外交官として日本に遣わした。小野妹子も従って日本へ還った)
煬帝の使者、裴世清の携えた隋の国書は、
『皇帝問倭皇。云々』(皇帝は倭皇に問う。うんぬん)
という文句で始まっている。(『隋書煬帝本紀、倭国伝、日本国志隣交志』)
上記、『隋書煬帝本紀』で、煬帝は日本の天子に対し「倭皇」、すなわち「皇」を使っている。
「皇」の字に関する限り、煬帝は日本の天子を自分と同格と認めている。
(雄山閣版『大日本史講座 第十七巻、支那史籍上の日本史』昭和五年、p.123)
果たして、日本文教社の言うように
『隋の外交秩序を無視したこの試みはうまくいきませんでした』
のだろうか。
これは日本文教社の明らかな歴史の歪曲であり、嘘である。
子供に嘘を教えてはなりません。
評価 -5点
帝国書院 (手紙「日出づる処」有り 欄外)評価1点
<本文>
(3章 中国にならった国家づくり)
『このように国内の政治が整うと、外交では、6世紀後半に中国を統一した隋へ、小野妹子らを遣隋使として遣わしました。そして、隋の進んだ政治の仕組みや文化を取り入れ、正式な国交を目指しました。高句麗と対立していた隋は、倭国との関係を重く見て、政治や仏教を学ぶための留学生や留学僧を受け入れました』p.28
欄外:607年に聖徳太子が隋の皇帝に送った手紙
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」
(解説なし)
<評価> 帝国書院 (日出づる処 有り 欄外)評価1点
1:聖徳太子の手紙が欄外に有る。
2:隋の皇帝煬帝の名は無い。
3:遣隋使の説明の分量は5行で、少ない。
4:説明が不十分である
本文に聖徳太子の手紙がなく、評価できない。
欄外に「日出づる処の天子」の文章を載せているが、ただ単に手紙の文章を載せるだけで、説明が無く、これでは、聖徳太子が隋と対等な外交を行ったことが中学生には分からない。この手紙の持つ意義を説明せず、不親切に過ぎる。
隋の煬帝の名前も無い。
説明も少なく、不十分である。
「正式な国交を目指しました」という文章があるが、これでは何の事か分からない。日本が独立国として隋と対等な立場で外交を行った事が、きちんと中学生に分かるように書かなければならない。
聖徳太子の手紙を載せている点のみが評価される。
評価1点
教育出版 (日出づる処 有り 欄外)評価2点
<本文>
『また、隋との国交を開き、中国から進んだ文化を取り入れようとして、小野妹子らが遣隋使として送られました。遣隋使と共に多くの留学生や僧が隋にわたり、政治制度や仏教などを熱心に学びました』(P.28-29)
欄外
「日出処天子致書日没処天子無恙云々
日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」
倭の王(天皇)から隋の煬帝に送られた手紙 中国の歴史書である『隋書』の倭国伝に記されたものです」 P.23
<評価> 教育出版 (手紙「日出づる処」有り 欄外)評価2点
1:聖徳太子の手紙は欄外に有り。
2:隋の皇帝煬帝の名は欄外に有り。
3:遣隋使の説明の分量は7行で、少ない。
4:説明の内容も不十分である。
本文に聖徳太子の手紙が無く、欄外に載せてある。評価できない。
欄外に手紙が載っており、煬帝の名前も載っているが、聖徳太子の名が無いのは問題である。隋に対する日本の対等外交という歴史的な意義の説明もなく、評価できない。
これでは、聖徳太子が大帝国隋の皇帝に対して日本が独立国である事を示したこの手紙の歴史的な意義が分からず、また、聖徳太子が日本古代、飛鳥時代の偉大な政治家であった事が、中学生には分からない。
聖徳太子の手紙の文章が漢文である所と、煬帝の名前を挙げている点だけが評価出来る。
評価2点
東京書籍 (手紙「日出づる処」 無し)評価0点
<本文>
(2節 古代国家の歩みと東アジア世界)
『中国では6世紀の末に、隋が南北朝を統一して強大な帝国を作り上げました。そこで日本は、東アジアでの立場を有利にし、隋の進んだ制度や文化を取り入れようと、607年に小野妹子などを送って以後、数回にわたって隋に使者を送り(遣隋使)、多くの留学生や僧を同行させました』p.34
<評価> 東京書籍 (手紙「日出づる処」 無し)評価0点
1:隋の皇帝にあてた聖徳太子の手紙が無い。
2:隋の皇帝煬帝の名も無い。
3:遣隋使の説明の分量は4行で、少ない。
4:内容の説明も不十分で、隋との対抗外交の事を書いていない。
本文に聖徳太子の手紙も煬帝の名前も無く、また、日本が隋の力を利用して「東アジアでの立場を有利に」立ちまわろうとするがごとき卑屈な対隋外交の説明も的外れである。
日本が独立国であり、隋との対等外交を行った事が一切書かれていない。評価できない。
評価0点
清水書院 (手紙「日出づる処」 無し)評価1点
<本文>
『中国とは対等の関係を結ぼうと、小野妹子を使節として隋へ派遣し(遣隋使)、留学生や僧も同行させて、優れた文化を学ばせた。こうした中国への使節は、次の唐へも続けられた』P.32
<評価> 清水書院 (手紙「日出づる処」 無し)評価1点
1:隋の皇帝にあてた聖徳太子の手紙が無い。
2:隋の皇帝煬帝の名も無い。
3:説明の分量は3行で、7社のうち一番少ない。
4:説明も不十分。ただ、『中国とは対等の関係を結ぼうと』した、と書いている点のみ、唯一評価出来る。
本文の『中国とは対等の関係を結ぼうと、小野妹子を使節として隋へ派遣し』
これだけでは何の事か分からない。
ただ、『中国とは対等の関係を結ぼうと』した、と書いている点のみ評価出来る。
評価1点
最後に、結論として一言。
日本文教出版、東京書籍、清水書院の3社は、まったく聖徳太子の手紙を出していない。
この3社は、なぜ日本史にとって大事な聖徳太子の手紙を隠そうとするのか。なぜ聖徳太子の活躍した飛鳥時代の昔から我が国が独立国であった事を隠そうとするのであろうか。
古代から日本は独立国であったという事を中学生に教えようとしないこの3社は反日的な教科書と言わざるを得ない。
とくに日本文教出版は、聖徳太子の外交が失敗だったとして、歴史上の文献『隋書』に反する嘘を書いている点は、歴史の捏造であり、全く評価できない。
子供に嘘を教えてはならない。
帝国書院、教育出版は、欄外の資料として聖徳太子の手紙を載せてはいるが、説明が不十分である。解説を載せないという点からすると、日本の教科書としては、聖徳太子の手紙を載せていないとまずいから、一応アリバイ作りで載せておこう、という消極的な態度が感じられる。
基本的に日本の立場で書かない反日的態度は、上記3社と変わらない。
以上見たように、日本文教出版、東京書籍、清水書院、帝国書院、教育出版の5社は、日本の独立を喜ばない立場で教科書を作っていると言わざるを得ない。
それに比べ、自由社と育鵬社は、説明文の分量も豊富で、その内容が日本の立場に立って書かれている。他の5社と比べて、一読すればその違いは明らかである。
聖徳太子の対等外交、日本の独立をはっきり書いているこの2社を比べる時、聖徳太子の手紙を本文に載せ、また説明文も育鵬社より多い自由社の方が一歩優れている。
以上、聖徳太子の手紙「日出づる処の天子」の項を終わります。