例:その8【日本は朝鮮史を教えなかったのか】
また近現代史もひどい。
「韓国の植民地化」の項目において、東京書籍は
(日韓併合の後)『(朝鮮の)学校では朝鮮史を教える事を禁じ、日本史や日本語を教えて・・・・』p.160
と書いてあります。
しかし、大正11年(1922)の日本政府の『新教育令』には
「普通学校(朝鮮人の為の小学校)の歴史、地理は特に朝鮮に関する事を従前より詳しく教える事」
とあります。
日本政府は、朝鮮の子供達に朝鮮の歴史を教えるように法律で定めていたのです。
ここでも、東京書籍は、明らかに中学生に嘘を教えています。
例:その9 【日本軍の華北侵入、盧溝橋事件、南京大虐殺の嘘】
また、「日中戦争の勃発」の項で、
(満州事変の後)『満州を実質的な支配下に置いた日本は、さらに華北に侵入しました。1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋で起こった日中両国軍の武力衝突(盧溝橋事件)により、日中戦争が始まりました。
戦火は華北から華中に拡大し、日本軍は、同年末に首都南京を占領しました。その過程で、女性や子供を含む中国人を大量に殺害しました(南京事件)。㊟
【欄外の㊟】:この事件は、南京大虐殺として国際的に非難されましたが、国民には知らされませんでした。』(p.188)
と書いてあります。
ここで、華北侵入と日中戦争(支那事変)と南京大虐殺を、見てみます。
なお支那事変を日中戦争と呼ぶのは間違いです。支那事変は「事変」であり、「戦争」ではありません。
また当時、中国は支那(シナ)と呼ばれ、現在でも世界ではチャイナChinaと呼ばれるのが普通です。
以下、歴史的事件は、「中国」の代わりに、なるべく歴史的名称である「支那」を使います。
【日本が華北に侵入した、という嘘】
まず、華北侵入ですが、東京書籍の教科書では
(満州事変の後)『満州を実質的な支配下に置いた日本は、さらに華北に侵入しました』
と書かれていますが、事実はどうか。
満洲国成立後、武力紛争を未然に防ぐ為に、日本は支那(中国)側と塘沽(たんくう)停戦協定を結んで、華北に非武装中立地帯を作り、その非武装地帯は、支那人による冀東(きとう)防共自治政府が治めた。
(『日本歴史大辞典』第5巻、河出書房 P.330等から要約)
すなわち、日本が作ったのは非武装中立地帯です。
東京書籍の「日本はさらに華北に侵入しました」と云うのは、嘘です。
【盧溝橋事件は支那(中国)が仕掛けた】
また、支那事変(日中戦争)について、このように書いています。
『1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋で起こった日中両国軍の武力衝突(盧溝橋事件)により、日中戦争が始まりました』
しかし、東京書籍は、どちらが盧溝橋事件を起こしたか書いていません。
これは日本の名誉に関わる問題です。
盧溝橋事件は、支那軍(中国軍)が日本軍に発砲して起こした事件です。
ここで、支那軍が盧溝橋事件を起こした明白な証拠を、一つだけ挙げます。
盧溝橋事件は、昭和12年7月7日の夜に起こりましたが、その4日後、7月11日、現地の日本軍と支那第29軍との間で停戦協定が結ばれます。
その第一条は、次の如し。
第1条:(支那)第二十九軍代表は、日本軍に対し遺憾(いかん)の意を表し、かつ、責任者を処分して、将来、責任を以て再びかくの如き事件の惹起(じゃっき)を防止することを声明す。
支那軍は、支那側が仕掛けた事を認めて謝罪し、発砲した犯人を処罰し、再発しないようにする、と言っているのです。
(論文 茂木弘道『「日中戦争」は中国が起こした:日本侵略者論批判』
なぜ東京書籍は、支那軍が盧溝橋事件を起こした事を書かないのでしょうか。
ついでに言えば、よく「日本軍が中国を侵略した」と言われますが、当時、華北における支那第29軍は兵力23万、対する日本の支那駐屯軍は5千6百。
この5千6百名の日本兵が、北京、天津、塘沽等の北京〜山海関間の鉄道、北寧線に分散して駐屯しており、中心になる天津が3個大隊3,000人、その他各地に200人の中隊単位で駐屯していた。
(『戦史叢書 支那事変陸軍作戦 Ⅰ』朝雲新聞 防衛庁防衛研修所戦史室 p.138、他より)
『日本軍は、いわば中国軍の「海の中に浮かぶ小島」のような存在』
(『日中戦争 Ⅲ』児島襄、文芸春秋、p.10)
でした。
これでは、少なすぎて侵略のしようがありません。
また、侵略するのなら、なぜ日本は停戦協定を結んだのでしょうか。
さらに、日本政府は、発砲事件発生の翌日7月8日の夕方に「事件不拡大と局地解決」を決定し、各出先機関に連絡しています。
侵略するのなら、なぜ日本政府は「事件不拡大」を決めたのでしょうか。
また、よく、「日本軍が中国に駐留していた事自体が侵略だ」と言われますが、これは、明治33年(1900)に起こった義和団事件(北清事変)の講和条約である北京議定書において、条約に参加した各国に認められた自国民保護のための駐留です。
当時、日本を含む列強、英米仏伊の軍隊がそれぞれ駐兵しており、日本軍だけではありませんでした。
<外国駐留軍の内訳>
英軍:1,008名
米軍:1,227名
仏軍:1,823名
伊軍:328名
(『戦史叢書 支那事変陸軍作戦 Ⅰ』朝雲新聞、防衛庁防衛研修所戦史室 p.140)
話を元に戻します。東京書籍は次のように書きます。
『1937年(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋で起こった日中両国軍の武力衝突(盧溝橋事件)により、日中戦争が始まりました』
として、盧溝橋事件により「日中戦争が始ま」った、としています。
しかし、上に書いたように、停戦協定が結ばれた段階で、盧溝橋事件は終了しています。
日本軍は、支那軍と停戦協定を結んで盧溝橋事件を解決し、武力紛争を終わらせているのです。始まりではありません。
【支那事変(日中戦争)は支那(中国)が仕掛けた】
また、東京書籍は、続けて
『戦火は華北から華中に拡大し』
と書いていますが、戦火が自分で勝手に拡大するものではありません。
正確には、
『日本は戦争を望んでいなかったが、支那軍(中国軍)が、繰り返し日本軍に武力攻撃を仕掛け、戦火を華北から華中に拡大させ、日本を無理やり武力紛争に巻き込んだ。支那事変(日中戦争)は、支那(中国)が仕掛けた紛争である』
と書かなければなりません。
盧溝橋事件から第二次上海事件に至るまで、すべての事件において、支那側が日本側に攻撃を仕掛けて来ています。日本軍の行動は、自衛の為の反撃です。
なぜ東京書籍は、その歴史的事実を無視して、嘘を書くのでしょうか。
以下、盧溝橋事件から南京陥落までの支那事変(日中戦争)の経緯です。
<支那事変の経緯>
昭和11年12月7日 西安事件 (第二次国共合作)
西安において、張学良が謀略で蒋介石を逮捕、監禁。
共産党の周恩来が、蒋介石に釈放を条件に国民軍の共産党軍攻撃の中止と、日本を敵とする共同戦線(国共合作)を強要。蒋介石はこれを飲む。
蒋介石の国民軍に追い詰められて、壊滅寸前だった支那共産党軍はこれで生き延びる。(第二次国共合作)
昭和12年7月7日 盧溝橋事件
夜10時40分、日本軍が夜間演習を行っていた時に、支那軍から数十発の不法銃撃を受ける。翌朝まで3回の銃撃を受けるが、日本軍は自重し、翌朝まで反撃せず。(夜間演習は事前に支那側に通告していた)
昭和12年7月8日 盧溝橋事件、戦闘と停戦交渉
翌朝、日が昇ってから、またも支那軍からの銃撃を受け、初めて日本軍は反撃。戦闘は約2時間で終わり、現地で日支間の停戦交渉が始まる。
昭和12年7月8日、日本政府は「不拡大方針」
8日夕方、日本政府及び参謀本部は「不拡大方針」を現地に指示。
しかし、ここに驚くべき事実があります。
同じ日の8日、支那共産党は電報を各地に発し、支那全国人民に、日本の侵略者を支那から駆逐せよ、と対日徹底抗戦を呼びかけています。これは、現在、中国側の本に載っています。
例えば、『証言・南京大虐殺』(中国・南京市史料研究会編、加々美光行・姫田光義訳・解説、青木書店、1984。p.8 )
支那共産党は、一地方の小規模の武力衝突を、なぜその日のうちに知り、なぜその日のうちに電報を打つ事が出来たのか。
普通なら、実際に何が起こったのか、現地の実情を知るために情報収集している段階であろうに、何と驚くべき、この手回しの良さ。
これは、支那共産党が日本軍と蒋介石軍を戦わせようとしたとする支那共産党陰謀説の有力な傍証とされています。
昭和12年7月9日、 8日夜から日支両軍間の徹夜の交渉の結果、午前3時、現地で、両軍が兵を引く撤兵交渉成立。
昭和12年7月11日、現地停戦協定成立(松井・秦徳純停戦協定)
<不審な射撃が続く>
北平(北京)周辺における不審な射撃が7月10日以来毎晩、特に明け方近くに起った。
(北平:当時、北京は北平(ペーピン)と呼ばれた)
「北平(北京)戒厳状況ハ、(中略)市内ノ人心ハ、ヤヤ安堵ノ形ナリ。タダシ夜間、城外、特ニ日支両軍ノ接近セル地方ニオイテ、爆竹ヲ利用シ、両者ノ衝突ヲ誘発セント企図スル者アリ」 【北平特務機関業務日誌】
(『支那事変陸軍作戦 Ⅰ』p.191)
昭和12年7月17日、蒋介石の廬山「最後の関頭演説」(7月19日公表)
「もし不幸にして最後の関頭に立ち至たらば、徹底的犠牲、徹底的抗戦により、全民族の生命を賭して国家の存続を求むべきなり」
盧溝橋事件は、停戦協定も結ばれ、また日本政府も不拡大を宣言しているにもかかわらず、蒋介石は、北京郊外で起こった小規模な軍事衝突を全面戦争に拡大しようとし、和平交渉への姿勢は無し。
昭和12年7月18日、支那軍、順徳付近における日本軍偵察機に対する射撃
昭和12年7月19日、支那軍が一文字山付近で射撃、日本軍将校が負傷
19日 同夜、支那軍による日本軍陣地への迫撃砲攻撃
<中国共産党の扇動工作>
「平岡補佐官の調査によると、『特務機関は19日から丸3日、得体のしれない銃声、砲声について日支両側から抗議を受けた。(中略)
よって、翌22日夜、憲兵隊が張り込み、土砲や爆竹を鳴らす青年十余名を捕えて調べたところ、彼らは精華大学の学生を中心とし、共産党の指導下、日支両軍の交戦地帯の中間に潜入し、土砲や爆竹で両軍を刺激する事により事変の拡大を企図している事、ここ十日ぐらい前から毎晩実施している事、などが判明した』」
(『戦史叢書 支那事変陸軍作戦 Ⅰ』p.192)
昭和12年7月25日 郎坊事件:支那軍の日本軍通信隊への襲撃事件
北京近郊の郎坊駅で何者かによって日本軍の電線が切断され、日本軍の通信隊が修理をしていたところ、これに対して支那軍が小銃、軽機関銃、さらに迫撃砲によって通信隊を攻撃してきた事件。(郎坊:廊坊とも書く)
日本側の損害は、戦死4名、負傷10名、死傷者の合計14名。
これは支那軍側による一方的な停戦協定の違反である。
昭和12年7月26日、広安門事件:支那軍の日本軍への襲撃事件
当時、北平(北京)城内の日本人2,000人を守る日本兵は20名のみ。
不穏な情勢下で日本人居留民保護の為に、北平城の広安門から入城しようとした日本軍、広瀬大隊(支那駐屯歩兵第2連隊第2大隊)のトラック26両に対し、支那軍が手榴弾と機関銃の猛射による攻撃を加えてきた事件。
日本軍の入城は、事前に支那政府と北京市長に承諾を得たものであった。
この戦闘における日本軍の死傷者は、戦死3名、負傷16名、合計19名。
これも支那軍側による一方的な停戦協定違反である。
昭和12年7月28日~30日 日本軍の反撃(平津作戦)
日本軍は、停戦協定に違反して日本軍を攻撃してきた支那軍に対し反撃し、北京周辺(平津地区)の中国軍を掃討する。
昭和12年7月29日 通州事件:支那軍による日本人虐殺事件
北京郊外の通州において、日本軍駐屯部隊が平津作戦で通州を留守にした隙を狙って、支那保安隊が女子供を含む日本人230名を虐殺。
虐殺の惨状は筆舌に尽くし難し。
現地の状況が少しずつ報道されて行くに従い、その惨状のひどさが明らかになって行く。当時の日本の新聞がその様子を連日報道。
日本の世論は轟々として、悪逆無道の中国討つべし、という声が高かまったが、しかし、それでも日本政府は不拡大方針を変えなかった。
<通州事件と岩波書店>
なお、岩波書店の『近代日本綜合年表』(1968)には、7月28日の日本軍総攻撃(平津作戦)は載せているが、翌日29日の通州事件を載せていない。何という事でしょう!
以下の書物にはちゃんと通州事件が載っている。
吉川弘文館『日本近代史年表』2008、
吉川弘文館『日本史総合年表』2001、
平凡社 『昭和・平成史年表』1997、
国書刊行会『年表太平洋戦争全史』
講談社 『20世紀全記録』昭和62年
講談社 『昭和2万日の全記録』平成元年
吉川弘文館『国史大辞典』昭和63年、第9巻
山川出版社『日本史広辞典』
平凡社 『日本史大事典』1993
河出書房 『日本歴史大辞典』
東京書籍 『日本史総合辞典』1991
(観音寺市立図書館にて)
(岩波書店は、おそらく意図的に通州事件を消している)
昭和12年8月9日 「船津和平工作」の最初の会談が頓挫(上海)
同じ日、日本側から提案した船津和平工作の最初の会談(船津・高宗武会談)が行われたが、この「大山中尉殺害事件」で頓挫。高宗武は南京に帰る。
(注:高宗武は、国民政府・外交部・亜州司長)
昭和12年8月13日 「第二次上海事件」勃発。
午前10時半ごろ、上海共同租界の商務印書館付近の支那軍が日本海軍陸戦隊の陣地に突如射撃を加えて来た。
この上海の支那軍は、第一次上海事変の休戦条約に違反して上海の非武装地帯に侵入してきたものである。
昭和7年(1932)、第一次上海事変の休戦条約で、上海の周辺15マイル(24キロ)が非武装地帯に定められていた。
しかし、蒋介石は、停戦協定に違反して、昭和9年(1934) からドイツ軍事顧問団を招き、その指導により、コンクリートのトーチカを連ねた要塞線(ゼークト・ライン)を上海の西方の非武装地帯に築いて、盧溝橋事件よりはるか以前から、日本軍に対する戦争準備を行っていた。
(ゼークトは、蒋介石のドイツ人軍事顧問ハンス・フォン・ゼークト大将の名前)
(『日中戦争はドイツが仕組んだ』阿羅健一 小学館 2008)
当時の上海の兵力は、日本側が海軍陸戦隊の4,500、対する支那国民党の正規軍は5万であった。また、支那国民軍の総兵力は200万。
また、日本の海軍陸戦隊は、陸軍と違い、軍備は重火器を持たない軽装備である。その海軍陸戦隊4,500名で中国侵略が行える訳がない。
昭和12年8月14日 支那軍機による上海爆撃と支那軍の一斉攻撃開始
第3師団(名古屋)、第11師団(香川県善通寺)に動員命令
昭和12年9月2日 日本政府は、今回の紛争を「支那事変」と命名
当初「北支事変」と呼んだ盧溝橋事件以来の紛争を「支那事変」と命名。
昭和12年9月22日 蒋介石国民党と毛沢東共産党が和解、
日本政府の広田外相は、和平の仲介をドイツに依頼して、トラウトマン中華大使を通じ和平条件を提示したが、蒋介石はこれを拒絶。
昭和12年11月9日 日本、上海を制圧。
昭和12年11月15日 グルー和平工作失敗
広田外相は、アメリカのグルー大使に仲介を依頼したが、グルー大使は積極的な斡旋をしなかった。
昭和12年12月1日 大本営、南京攻略を下命。
昭和12年12月7日 蒋介石、南京脱出。
|
昭和12年12月10日 降伏勧告の返答なし。午後2時、南京城攻撃開始。
南京は、周囲を20メータ以上の高さの城壁で囲まれた城塞都市で、城壁の手前には幅10メーター以上のクリーク(川)が廻らされており、支那兵が城壁の上から猛射撃してくる中、日本軍はクリークを渡り、城壁をはしごで登ると云う、日本軍にとってまことに不利な状況下で、激戦につぐ激戦が行われた。
例えば、中山門を攻めた金沢第9師団第2連隊第2中隊は、総勢198名が最後には6名になった。
砲撃で崩れた光華門の城壁斜面に掩体を作り、死守。(第3中隊200名中、生き残り9名)
司令官唐生智の逃亡が伝わり、南京城内の支那兵は総崩れとなり、戦闘は深夜までに終了。支那兵の一部は城外に逃げ、残りは安全区内に隠れた。
この時、揚子江に面する港、下関に通じる挹江門、興中門付近で、逃げる支那兵士と、それを阻止しようとする支那軍の督戦隊との間で同士討ちが起き、多数の死傷者が出て、死体の山をつくる。
(支那軍、李宗人将軍、程奎朗参謀の回想:『再現南京戦』東中野修道、草思社p.72)
南京城内での戦闘はなく、無血入城。
<12月13日、南京入城時の日本軍将兵の証言>
福知山第20連隊第3中隊長・森英生氏 <南京城の東:中山門より入城>
「中山門の城壁上で遙拝式を終え(中略)私は中隊を率いて城内に下りました。城内には、敵兵はもちろん、住民一人おらず」
(『真相・南京事件』畝本正己 文京出版p.72)
福知山第20連隊速射砲中隊長代理・栗原直行氏 <南京城東南:光華門より入城>
「掃討地区には、住民の人影も遺棄死体も無く、まして交戦する事も無く、平穏無事に掃討行動を終了」(同p.74)
金沢歩兵第6旅団副官・吉松秀行氏<南京城東南:光華門より入城>
「城内侵入に当たっては、敵の撤退が意外に早く、予期していた抵抗に遭遇せず、住民の姿も見なかった。」(同p.78)
金沢第9師団・敦賀第19連隊・土屋正治中尉 <光華門より入城>
「城壁こそ砲撃によって破壊されていたが、街並みの家々は全く損壊しておらず、瓦一つ落ちていない。ただ不気味な静寂、異様な寂莫感が我々を包み、勇敢な部下も一瞬たじろいだ。未だかつて味わったことのない、言葉では言い表せないこの静けさ。
市街に深く侵入すれがするほど、まさに『死の町』と言う感じを深くした。敵弾の飛来はもちろん、人影一つ見えず、粛然とした軒並みのみが果てしなく続いていた」(同p.79)
富山第35連隊第3中隊体長・清水定信氏 <光華門より入城>
「市内の掃討に出発し、まず飛行場を占領したが、敵は既に退散して、いなかった。」(同上p.80)
敦賀第19連隊第1大隊本部付軍曹・安川定義氏<光華門より入城>
「光華門より入城して西面して掃討したが、敵兵を見ず、銃火を交える事はなかった」(同上p.80)
中支派遣第3艦隊・第11戦隊・旗艦『安宅』所属従軍画家・住谷磐根氏 <南京城の北西:興中門より入城>
「人っ子一人歩く者はなく、無人の街、(中略)森閑として人影はもちろん全くない」(『再現 南京戦』東中野修道p.197)
大分第47連隊通信班長・守田省吾中尉 <南京城の南:中華門より入城>
「その当時、中華門付近の城内にはほとんど敵兵を見ず、ましてや一般住民はその姿を発見する事さえ困難であった」(同p.199)
第10軍参謀・金子倫助大尉 <中華門より入城>
「南京に入ったのは13日か14日だと思います。城内では一人の死体も見ていませんし、一発の銃声さえも聞きませんでした。
(中略)
どうも南京の城内の印象は薄いのです。印象に残るような事がなかったのは、特別何もなかったからだと思います」
(『聞き書き南京事件』阿羅健一p.84)
昭和12年12月26日 「第二次トラウトマン和平工作」失敗
日本政府は、再度ドイツのトラウトマン中華大使を通じ和平交渉を行うが、支那側は曖昧な回答をして、和平工作は失敗。
以上が、支那事変の南京陥落までの経緯です。
ご覧のとおり、休戦条約を破り、攻撃を仕掛けたのは、常に支那軍(中国軍)であり、日本軍の軍事行動はすべて自衛の為でした。
かつ又、日本は戦闘と平行して、常に和平交渉を行っております。しかし、蒋介石は常に和平交渉に応じようとしませんでした。
これが歴史的事実です。歴史を見れば、日本が支那(中国)を侵略していない事は明らかです。また、日本の和平努力も明らかです。
しかるに、なぜ、東京書籍は、日本を侵略者として悪く書くのでしょうか。
これは、まさに歴史の捏造であります。
村山富市元首相は、『村山談話』で日本がアジアを侵略したと言いました。
歴代内閣もまた、『村山談話』を踏襲しています。
それならば、村山元首相はじめ、歴代首相に問いたい。
日本が、いつ、どこで、誰が、アジアを侵略したか、一つでも良い、実例を挙げて頂きたい。
我が国は、いつから総理大臣が嘘を言うようになったのでしょうか。
我が国は、いつから子供に嘘を教えて恥じない国になったのでしょうか。
我が国は、いつから先人の名誉を踏みにじる国になったのでしょうか。
戦争未亡人の歌
かくばかり みにくき国と なりたれば
捧げし人の ただに惜しまる
(『東京裁判の呪い』小堀桂一郎 PHP研究所1997 p.2)
【南京大虐殺は大嘘】
次に、南京大虐殺について、東京書籍は次のように書いています。
『戦火は華北から華中に拡大し、日本軍は、同年末に首都南京を占領しました。その過程で、女性や子供を含む中国人を大量に殺害しました(南京事件)。㊟
欄外㊟:この事件は、南京大虐殺として国際的に非難されましたが、国民には知らされませんでした。』(p.188)
と書いています。
そもそも、南京大虐殺とは、アメリカが、戦争中に自分達が行った戦時国際法違反を隠す為に、東京裁判で初めて持ち出して来たものです。
一般市民を殺すことは、明らかな戦時国際法違反です。
にもかかわらず、アメリカは、日本の200ヶ所以上の都市に無差別爆撃を行い、一般市民50万から60万を殺戮しました。
そして広島・長崎へ原爆を投下し、一般市民30万を無差別殺戮しました。
アメリカは、これら自分の犯した戦争犯罪を隠すために、東京裁判で南京大虐殺という大嘘を捏造し、日本を悪者にしました。
そして、その後、中国共産党が日本を貶める為に今日まで使い続け、そして現在も使っているプロパガンダです。
それも、嘘も100回言えば本当になる、と云う中国共産党の情報工作です。
しかし、日本では、もうすでに南京大虐殺が大嘘である事、プロパガンダである事が、多くの研究者の努力によって証明されています。
0 件のコメント:
コメントを投稿